2026/6/2
まちづくり。
この言葉は、行政が好んで使うフレーズです。
しかし、時には、市民の実感から乖離していることがあります。
東大阪市が長年掲げてきた「ラグビーのまち」は、その典型例です。
東大阪市役所は、花園ラグビー場という象徴的な施設を根拠に、「ラグビーのまち」というブランドを語り続けています。
しかし、市民は本当にこれを望んでいるのでしょうか?
本稿では、約48万人都市・東大阪市の「ラグビーのまち」政策を素材に、“まちづくり”の構造を批判的に検討します。
そこには、
といった問題が潜んでいます。
本稿では、東大阪市の事例を通じて、行政が作り出す「まちの物語」が、どのように市民の自由や多様性と衝突するのかを明らかにします。
東大阪市には約48万人もの多様な市民が住んでいます。
なので、ラグビーという1個のコンテンツをまちの象徴にすることは、そもそも、無理なのです。
むしろ、48万人都市が「ラグビーのまち」になってしまっていることが、おかしなことなのです。
何故、この、おかしなことが実現してしまっているのか。
皆様、是非、自分ゴトとして、興味関心を持ってください。お願いします。
行政が特定の事業に公金を投入する場合、その根拠となるのは
という三つの基準です。
これは、どの自治体でも共通する公共政策の基本原則です。
しかし、東大阪市の「ラグビーのまち」政策は、この三つの基準を十分に満たしていません。
- 市民全体の利益と結びついていない
ラグビーは、あくまで趣味娯楽です。
文化・スポーツ政策が公共性を持つためには、 「市民の多数が利用する」「市民生活の基盤に寄与する」 といった条件が必要です。
しかし、ラグビーはその条件を満たしません。
市が示す根拠は、
という「施設起点」の理由に過ぎません。
市民の合意や需要を根拠とした政策ではありません。
市民アンケートでは、「スポーツ活動が盛んなまち」への期待は低く、 市民の生活実感と政策の方向性が乖離しています。

- 行政が担うべき領域ではない
行政は、一般市民が利活用できる運動施設を設置する必要はあるかもしれません。それは、市民の健康の維持・増進を目的とします。
しかし、観戦や対戦を目的とする趣味娯楽施設(スポーツ競技施設)を設ける必要性はありません。
東大阪市は約48万人が暮らす多様性のある都市であり、多数の趣味・娯楽の事業者が競争する状況になっています。スポーツ・娯楽施設の建設・運用は、民間主導で行うべきです。
行政が特定のスポーツ競技だけを支援することは、
という問題を生みます。
ラグビーだけを特別扱いする必然性は、市の説明から読み取れません。
「ラグビーのまち」政策に対する市民の反応は、集客数に反映されます。
2025年10月11日(土)、東大阪市花園ラグビー場で「マスターズ花園2025開催記念イベント」が開催されました。無料で、誰でも観戦できます。
下の写真は、その時の、花園近鉄ライナーズ VS レッドハリケーンズ大阪のラグビーの試合の様子です。人気が無いという証拠です。このような大規模施設は不要です。


- 特定の集団に利益が集中している
「ラグビーのまち」政策によって利益を得るのは、
といった特定の集団に限られます。一方で、
には直接的な恩恵がありません。
公共政策は「特定の集団の利益」ではなく、「市民全体の利益」を目的とすべきです。「ラグビーのまち」政策はこの原則から外れています。
何故、この原則から外れたのでしょうか。

花園ラグビー場の維持管理には、年間約1億2千万円の公金が投入されています。
芝生の維持管理だけでも約4千万円が必要です。
このような支出が必要だとは思えません。


小結:公共政策としての基準を満たしていない
以上の点から、「ラグビーのまち」政策は、 公共政策としての三つの基準
を満たしていません。
行政が特定の趣味・娯楽を優遇することは、 市民全体の利益に資するどころか、 むしろ市民の多様性を損ない、 行政の中立性を揺るがすものです。
行政は本来、市民の多様な価値観を尊重した上で政策を設計すべきです。
ところが、東大阪市の「ラグビーのまち」政策は、単なるスローガンの域を超え、市民の内心に、ラグビー愛好の価値観を植え付けようとする方向へ踏み込んでいます。
その証拠に、市は「過剰な周知」を行っています。
● マスコット・広報・イベントによる“非言語的な誘導”
東大阪市では、ラグビー選手を模した、マスコットキャラクター「トライくん」を設けています。この「トライくん」を通じて、
など、あらゆる媒体で「ラグビーのまち」を繰り返し発信しています。


このような反復的な露出は、「東大阪市民=ラグビーを愛好する存在」という価値観を、市民に“当たり前”として刷り込む効果を持ちます。
行政が特定の趣味・嗜好を「市民のあるべき姿」として提示することは、 単なるPRの範囲を超え、内心の誘導にあたります。
● 内心の自由(憲法19条)との関係
日本国憲法19条は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定めています。
これは、
といった「内心の領域」に、国家や行政が介入してはならないという原則です。
もちろん、行政がスポーツをPRすること自体は直ちに違憲ではありません。 しかし、東大阪市のように、
という手法は、行政による価値観の形成に踏み込むものであり、 内心の自由の観点から問題があります。

● 「市民の内心に踏み込む政策」の危険性
行政が
「市民ならばラグビーを愛好するはずだ」
「市民にラグビーを愛好させよう」
「市民はラグビーを愛好するようになる」
「市民の愛好の対象は、ラグビーである」
という、市民にラグビーを押し付ける政策を進めると、 次のような問題が生じます。
これは、民主主義の基盤である「価値観の多様性」を損なう行為です。

● 他自治体との比較で見える「異常な強度」
他の自治体でも「○○のまち」というスローガンは存在しますが、 多くは「名義貸し」に近く、露出は限定的です。
しかし東大阪市は、
など、行政のあらゆる領域に「ラグビーのまち」を埋め込んでいます。

これは、単なるスローガンではなく、行政が市民の価値観を方向づけようとする政策として機能している点で、他自治体とは質的に異なります。

● 小結:行政による内心の誘導は許されない
行政が市民に対して、「ラグビーを愛好することが望ましい」という価値観を非言語的に押し付けることは、内心の自由の観点から問題があります。
市民の価値観は、市民自身が自由に形成するものであり、行政が誘導するものではありません。
「ラグビーのまち」政策は、行政の役割から逸脱しており、市民の内心に踏み込む政策になっています。

行政がラグビー愛好を市民に浸透させようとするとき、最も強い影響力を持つのが公教育です。
東大阪市の「ラグビーのまち」政策は、単なる広報やイベントにとどまらず、学校教育の内容に組み込まれています。
その象徴が、市教育委員会が作成した独自教材「夢トライ科」です。



● 教材に組み込まれた「ラグビーのまち」という前提
「夢トライ科」では、子どもたちに対して「花園ラグビー場を観客で満員にするための企画を考えよう」という課題が提示されています。
この課題設定は、教育の名を借りながら、
を、子どもに、当然のこととして刷り込む構造になっています。
ここには、教育が本来持つべき批判的思考の育成という目的が欠落しています。
● 公教育における「価値観誘導」の問題
学校教育は、行政の広報とは異なり、
といった強制力のある枠組みの中で行われます。
そのため、ラグビー愛好を公教育に組み込むことは、 市民の内心に対する強い介入となります。
特に問題なのは、「ラグビーのまち」政策を批判的に検討する視点が教材から排除されているという点です。
子どもたちは、政策の是非を考えるのではなく、政策を前提として受け入れることを求められています。
これは、教育の目的である
と矛盾します。
地域課題解決型学習なので、『なぜラグビーなのか』『ラグビー場維持にかかるコストと市の財政』といった、多角的な視点や批判的思考を養う選択肢を教材に含めるべきではないだろうか。
● 憲法・教育基本法との関係
日本国憲法26条および教育基本法は、教育が「不当な支配」に服してはならないことを定めています。
行政が自らの政策を正当化するために教育を利用することは、この「不当な支配」に該当する可能性があります。
特に、
は、教育の中立性を損なう行為です。

● 子どもの価値観形成への影響
子どもは、行政の政策を批判的に検討する能力が未成熟です。
そのため、教育内容に組み込まれた価値観を、“正しいもの”として受け入れてしまう傾向があります。
「ラグビーのまち」を肯定する教育が続けば、
といった問題が将来的に固定化されます。
これは、民主主義社会に必要な市民性の育成とは逆行します。
● 小結:公教育を利用した政策誘導は許されない
「夢トライ科」に見られるように、 東大阪市の「ラグビーのまち」政策は、公教育の領域にまで踏み込んでいます。
これは、
という重大な問題を含んでいます。
行政が自らの政策を正当化するために教育を利用することは、許されることではありません。
公共政策の評価は、本来、行政ではなく、市民・第三者が行うべきものです。
民主主義の基本原則は、「政策の妥当性を判断するのは行政ではなく市民である」という点にあります。
しかし、東大阪市の「ラグビーのまち」政策では、この原則が逆転しています。
● 行政が自らの政策を評価するという構造的問題
東大阪市では、
という自己完結型の評価構造が採用されています。
この構造では、政策が成功したかどうかを判断する主体が行政自身であるため、客観性・中立性が確保されません。
結果として、政策評価は
につながりやすくなります。
● 「ラグビーのまち」政策の評価軸が歪んでいる
問題なのは、「ラグビーのまち」政策の評価軸が、
政策そのものの妥当性ではなく、
“浸透度”になっている
という点です。
つまり、行政は
「市民がどれだけ『ラグビーのまち』を受け入れたか」
を評価指標にしているのです。
これは、政策自身の中に
「この政策は正しい」という前提が組み込まれている
ことを意味します。
政策の目的が「ラグビーを愛好するように、市民の内心を変えること」になっている以上、 その事業や評価は必然的にプロパガンダになります。
東大阪市役所が実施したアンケートでは、
役所側にとって都合の良い数字(「誇り」という感情論)を使って、
ラグビー政策の本質的な評価から目を背けさせようとしています。

「9割弱が誇りに思う」というアンケート結果は、一見すると政策の成功を裏付けているように見えます。
これを「政策の妥当性の証明」として扱うことには論理的な飛躍(あるいはすり替え)があります。
アンケートの質問文は「誇りに思いますか」という主観的な感情を問うています。しかし、「ラグビーのまちに誇りを持つこと」と、「そのために費やされた予算や行政リソースの配分が適切であるか(費用対効果や優先順位)」は全くの別問題です。
「ラグビーのまち」であるからといって、ラグビーに関心の無い市民にとっては、何のメリットもないのです。
● 本来あるべき政策評価とは何か
政策評価には、本来、次のような観点が必要です。
しかし、「ラグビーのまち」政策では、これらの観点が評価項目に含まれていません。
代わりに、
といった、行政が望む方向に市民が動いたかどうかが評価されています。
これは、
政策評価ではなく、
行政による市民の内心を誘導した達成度測定
に過ぎません。
● 自画自賛がもたらす悪循環
行政が自らの政策を自ら評価すると、次の悪循環が生まれます。
この構造は、政策の質を低下させるだけでなく、行政の説明責任を弱め、市民の民主的統制を損ないます。

● 小結:政策評価が政策の正当化装置になっている
東大阪市役所が実施している「ラグビーのまち」政策への評価は、 政策の妥当性を検証するためのものではなく、政策を正当化するための装置として機能しています。
行政が自らの政策を自ら評価する限り、 政策は改善されず、市民の価値観は行政のプロパガンダに従属させられます。
政策評価は、市民のためのものであり、 行政のためのものではありません。
近年、多くの自治体が政策文書にSDGsのアイコンを付記するようになりました。
本来、SDGsは政策の方向性を国際基準に照らして整理するためのツールであり、政策の妥当性を保証する“お墨付き”ではありません。
しかし、東大阪市の「第2次スポーツ推進計画」(2024年3月)におけるSDGsの扱いは、その本来の目的から大きく逸脱しています。
● SDGsアイコンの「装飾化」
同計画では、施策ごとにSDGsのアイコンが付記されています。
問題は、「花園ラグビー場を中心としたラグビーのまちのリブランディング」(39ページ)に、
といった複数のアイコンが割り当てられている点です。

しかし、施策の「主な取組」はラグビー日本代表戦の積極的な誘致など、ラグビー事業そのものです。
ラグビー事業が、これらのSDGs目標にどのように寄与するのか、具体的な説明がありません。
つまり、SDGsのアイコンは政策の実質を伴わない“飾り”として利用されているのです。
● SDGsの本来の意味と整合しない
SDGsは、
など、地球規模の課題に対する国際的な目標です。
ラグビー事業をSDGsに結びつけるためには、「どの目標に、どのように寄与するのか」という因果関係の説明が不可欠です。
しかし、東大阪市役所の計画では、アイコンが付記されているだけで、因果関係の説明がありません。
これは、SDGsの理念を政策の実質に反映させるのではなく、政策を“良さそうに見せる”ための装飾として利用している典型的な SDGsウォッシュ(SDGs washing)です。
● SDGsウォッシュが生む問題
SDGsを装飾として使うことは、次のような問題を生みます。
行政がSDGsを「飾り」として利用することは、 政策の質を低下させるだけでなく、 市民の政策評価能力を奪う行為でもあります。
● 小結:SDGsは政策の“免罪符”ではない
SDGsは、政策を正当化するための免罪符ではありません。
本来は、政策の方向性を国際基準に照らして検証するためのツールです。
「ラグビーのまち」政策にSDGsアイコンを付記する行為は、 政策の実質を伴わないまま「持続可能性」を装うものであり、 行政の説明責任を弱め、市民の判断を誤らせるSDGsウォッシュに他なりません。
少子化が進む中で、ラグビー政策は、持続可能性を欠きます。
競技人口が減少しているラグビーに公金を支払い続けた場合、
といった問題が、将来、必ず顕在化します。(現時点でも顕在化しています。)
行政は本来、若者の多様な興味に対応できる柔軟な政策を採用すべきですが、「ラグビーのまち」はその逆を行っています。
「ラグビーのまち」という過度なラグビーへの誘導は、市民全体ではなく、特に若者の未来の選択肢に強い影響を与えます。
過度なラグビーへの誘導が
にまで浸透すると、若者はラグビーを愛好する環境で育つことになります。
これは、若者の自由な価値観形成を阻害する構造的問題として捉えるべきです。
小結:持続可能性を欠く
以上のように、「ラグビーのまち」政策は単なるスポーツ振興の問題ではなく、若者の選択肢・未来の多様性を奪う構造を持っています。
そして、なによりも、競技人口の縮小が明白であるにも関わらず、ラグビー愛好政策を進めることは、若者に対して無責任です。
東大阪市が設定した「ラグビーのまち誘導区域」は、 土地そのものにプロパガンダを埋め込むという、強い誘導の構造を持っています。


「ラグビーのまち誘導区域」は、「このエリアはラグビーを中心に発展すべきだ」という過度なラグビーへの誘導を土地に設定する仕組みです。
これは、
よりも、ラグビーへの過度な誘導を優先する構造として機能します。
「ラグビーのまち誘導区域」は、単なる都市計画ではなく、市民をラグビーに屈服させる装置として機能することになるでしょう。
行政が「まちづくり」を語ること自体は悪いことではありません。
しかし、それが
という構造を持つなら、それは民主主義にとって危険です。
「ラグビーのまち」は、まさにその構造を持っています。
市民は、行政の「まちづくり」をそのまま受け入れるのではなく、
という視点で問い直すことが必要です。
市民が主体的に考え、批判し、選択することこそが、民主主義の根幹です。
「ラグビーのまち」は、東大阪市だけの問題ではありません。
全国の自治体が掲げる「○○のまち」というスローガンの多くが、 似たような構造を抱えているのではないでしょうか。
行政の「まちづくり」を疑い、その背後にある構造を読み解くこと。
それが、市民が自らのまちを取り戻す第一歩です。
以上
この記事をシェアする
ホーム>政党・政治家>前田 弘一 (マエダ ヒロカズ)>市民は本当に望んでいるのか? 東大阪市『ラグビーのまち』政策