2026/7/13

翌朝、和馬は街はずれの細い坂道を歩いていた。爺に言われた種屋は、地図にもろくに載っていなかった。山裾の、畑とも林ともつかない一帯。舗装の途切れた道を登っていく。
ふと、足元に目が留まった。土が妙だ。路肩の土が、からからに乾いている。きのうまでは気にも留めなかった。だが、爺にあの一言を投げられてから――この街の土を、いちど指で揉んでみろ、と――和馬はしゃがんで、ひとつまみすくってみた。
驚くほど軽い。手のひらの上でさらりとほどけ、その合間にごつごつとした小さな石の粒がいくつも混じっている。砂利だ。土というより、砕けた岩の欠片をそのまますくったような、痩せて骨っぽい手ざわりだった。ぎゅっと握っても、関東の土みたいにねちゃりとは固まらない。指を開けば、砂利だけがざらりと残って、はらりと落ちていく。
言われてみれば、確かにおかしい。関東の土はふつう、もっとしっとりと重い。雨が降ればぬかるんで、足をとられる。火山灰の関東ローム層。だがこの街の土は、まるで水をためこむことを知らないみたいに、乾いて軽い。
その奇妙に乾いた土の道の先に、店はあった。古い木造の平屋。看板は墨の文字が雨に流れて、ほとんど読めない。かろうじて――〈野渕種苗〉。
軒先に、色褪せた種袋が無数に画鋲で留められていた。大根、蕪、菜っ葉、胡瓜。どれも見たことのない品種の名ばかり。そして、いちばん上のいちばん古い一枚に――一羽の鳥の絵が刷られていた。炎の中から翼を広げて舞い上がる鳥。
不死鳥(ふしちょう)だ、と和馬は思った。
「邪魔するなら入ってこい。冷やかしなら帰れ」
戸を開けるなり、奥からしわがれた声が飛んできた。薄暗い店内は、天井まで木の小引き出しで埋め尽くされていた。ひとつひとつに墨で品種名が書かれている。何百、いや、何千とある。漢方薬の簞笥のようだった。その奥に、痩せた老人がひとり座っていた。
七十は過ぎているだろう。だが、種を選り分けるその指先は、驚くほど繊細に動いていた。豆粒のような種をピンセットで一粒ずつつまんでは、光に透かしている。
「和馬と申します」和馬は頭を下げた。「小鹿野の爺さんに――」
「ああ、あの元気な爺か」老人は顔も上げず、鼻を鳴らした。「『東の街の若いのが、種を見に来る』とよ。電話を寄越しやがった。――よりにもよって、役所の人間をな」
また爺だ。和馬は内心、苦笑した。あの老人の見えない翼は、この山裾の店にまで伸びている。
「野渕、源蔵(げんぞう)だ」老人はようやく顔を上げた。落ち窪んだ目が、和馬をひたと射た。「この日本一ちっぽけな種屋の三代目よ。――で。役所が種屋に、何の用だ」
「この引き出しの種は」和馬は壁一面の簞笥を見回した。「ぜんぶ何が違うんですか。種なんて、どれも同じだと思ってました」
「同じ、ねえ」源蔵は皮肉に口の端を上げた。「いまの世の中に出回ってる種はな、若いの。たいてい〈F1〉ってやつだ。一代雑種。聞いたことくらいあるか」
「……いえ」
「親の違う種を、人の手で無理やり掛け合わせた一代目だ」源蔵は引き出しをひとつ開けた。中には、つやつやと揃った種が詰まっていた。「こいつはよくできてる。芽吹きが早い。育ちが揃う。粒が揃う。形が揃う。箱に並べて一本いくらで売るには、もってこいだ。いまのスーパーの野菜は、ほとんどこれよ」
「いい種じゃないですか」
「ところが、だ」源蔵の目が光った。「こいつから種を採ってみろ。次の代は――めちゃくちゃだ。親のいいとこなんざ、影も形もねえ。化け物みてえなばらばらの野菜しか、できやしねえ。だから農家は、毎年毎年、種を買い続けるしかねえ。種屋から。いや――種屋のずっと上の、でかい会社からな」
和馬の胸の奥が、ざわりとした。「毎年、買い続ける」
「そういう仕組みなのよ」源蔵は別の古びた引き出しを開けた。そこには、大きさも色もまちまちの不揃いな種が入っていた。「こっちが〈固定種(こていしゅ)〉だ。在来種、とも言う。何百年も、その土地の百姓が、いちばん出来のいいやつを選んで種を採って、また蒔いて――そうやって命を繋いできた種だ。F1ができる前は、世界中の種がぜんぶこれだった」
源蔵は、その不揃いな種を手のひらにのせた。「不揃いさ。育ちもばらばらだ。大量に箱に詰めて売るには向かねえ。だが――」老人の声が、低く熱を帯びた。「こいつは自分で種が採れる。一度手に入れりゃ、二度と買わなくていい。その土地の土と水と寒さに、何代もかけて馴染んでいく。そして何より――味が濃い。本物の野菜の味がする」
「わかるか、若いの」源蔵は二つの種を左右の手にのせて、和馬の前に突き出した。「片っぽは、毎年銭を払って、よそから買い続ける種だ。形はいい。だが、自分じゃ何も生み出せねえ。種が切れたら終わりだ。――もう片っぽは、不格好だが、自分で命を繋いでいける種だ。一粒が万倍になる。一粒万倍(いちりゅうまんばい)、ってな」
和馬は、その二つの手のひらを見つめた。そして、背筋に冷たいものが走った。
これは――種の話じゃない。万能市の話だ。
安い外国の木を買い続け、自分の山を捨てた。安いよその物を買い続け、自分で何かを生み出すことをやめた。「金がない」と言いながら、外から買うことばかりを続けてきた。それは――F1の種を毎年買い続ける農家と、同じだ。依存か。自立か。
「気づいたか」源蔵が和馬の顔を覗き込んだ。にやり、と欠けた歯を見せる。「お前さんの街は、まるごとF1だ。自分じゃ種を繋げねえ。外から買い続けるしかねえ。――だが本当は、この土地は固定種の土地だったんだぜ」
「固定種の、土地」
「自分で命を繋げる土地さ。木も。野菜も。――そういう力を持った土地だったんだ。みんな、忘れちまっただけでな」
「ひとつ訊いていいですか」和馬は思い切って言った。「ここへ来る道で気づいたんです。この街の土は――妙だ。さらさらして、軽くて、握っても固まらない。砂利ばっかりで、まるで砕けた岩をすくってるみたいだ。なぜ、こんな土なんですか」
源蔵の、ピンセットを動かす手が止まった。老人はしばらく和馬を見ていた。それからゆっくりと立ち上がり、店の裏手の戸を開けた。小さな畑が広がっていた。その畝の土を、源蔵はひとつかみすくって、和馬の手にのせた。さらりと乾いて、手のひらの上で粉のようにほどける、奇妙に軽い土だった。
「石灰だ」源蔵は言った。「石灰岩(せっかいがん)の土よ。この街の北の石灰山(せっかいざん)――あの、肌を削られた岩の山が見えるだろう。あれはまるごと、石灰岩の塊だ。一枚岩の岩盤よ。その岩が何万年も雨に砕かれ、川に削り出されて、礫(れき)になる。お前さんが土に見つけた、その砂利は、その山の欠片だ。土の下はすぐ岩盤さ。この街の畑は、土なんて薄皮一枚。その下はまるごと、石灰の岩でできてる」
源蔵は傍らの古い一升瓶を手に取った。栓を抜くと、酢のつんとした匂いが立った。畝から小石をひとつ拾い、その上に酢をたらりと垂らす。
石は――泡を噴いた。
しゅわしゅわ、と細かい泡が、石の肌のあちこちから、いっせいに湧き立つ。まるで、ただの灰色の小石が、急に息を吹き返して、呼吸をはじめたみたいだった。
和馬は、吸い寄せられるように、指先をその泡へ伸ばした。ぷつ、ぷつ、と、細かい泡が指の腹で弾ける。かすかな、けれど確かな手ごたえ。冷たい。そして、生きている。何万年も足元にあって、ただ素通りしてきたこの石ころが――いま、和馬の指の上で、たしかに息をしていた。
「これが石灰の証(あかし)だ」源蔵は薄く笑った。「酸に触れると、息を吐くみてえに泡を出す。よその土の石は、こうはならねえ。この街の土には、こいつが骨の髄まで溶け込んでる。――それが、どういう意味を持つか」
石灰山。和馬の脳裏に、別の言葉がよぎった。白金(はっきん)。木金の次に、この街を潤したという、白い金。セメントの原料。石灰の山。
「この石灰の土はな」源蔵は畝の一角を指した。そこには、青々とした菜っ葉が茂っていた。「酸っぱいのが嫌いな野菜には、たまらん。日本の土はたいてい酸っぱいからな。石灰がそれを和らげる。――この、のらぼう菜を見ろ。この土で育つと、馬鹿みてえに甘くなる。よその土じゃ、こうはいかねえ。これが、うちが三代守ってきた、この街の固定種だ」
和馬は、その青い菜を見た。石灰の岩を砕いた痩せた土から、甘い菜が育つ。土が味を決める。高野の声がよみがえった。木の香りが、酒の味を決める。土が変われば、育つものも変わる。爺の言葉も。何かが繋がろうとしていた。あの、吉野で散った火花が。
「もう、ひとつ」源蔵はその土を握ったまま、ぽつりと言った。「お前さん、北の山を起こすんだって、な」
和馬は驚いて顔を上げた。「……それも、爺さんが?」
「狭い街だ」源蔵はふっと笑った。だが、その目に、初めて皮肉でない光が宿った。「だがな、若いの。それは――俺たちにとっても、命の綱なんだ」
「種屋に、ですか」
「種を採るには、な」源蔵は、畑の向こうの暗い山を見た。「混じり気があっちゃ、いけねえんだ。虫がよその花粉を運んできたら、種が汚れる。同じ仲間の野菜が近くにある街中じゃ、純粋な種は採れねえ。――だから昔から、種採りは山の奥でやった。人里離れた林業の村でな。木を育てる村が、種も守ってきた」
和馬は、息を呑んだ。
「ところが、山が死んだ」源蔵の声が沈んだ。「木が金にならねえ。村から人が消えた。種を採る場所も人も、いなくなった。――山の衰えと種の衰えは、同じひとつの躰(からだ)なんだよ。山が死ねば、種も死ぬ」
和馬の中で、すべてが繋がった。山を起こすこと。それはただ、木を金に変える話ではなかった。山がよみがえれば、その静かな懐で、種がまた採れるようになる。木金の再生は、そのまま――この石灰の土の、固定種の再生に繋がっている。森と種は、ひとつの躰。
「だから、源蔵さん」和馬は思わず身を乗り出した。「山が、よみがえれば」
「種も、よみがえる」源蔵は頷いた。その皺だらけの顔に、何十年ぶりかの希望のようなものが差した。「俺が生きてるうちに、その日が来るとは、思わなかったがな」
手の中の土を見つめながら、和馬の頭の中で、ばらばらだった欠片が、ひとつの形を結びはじめた。木金。山の木。白金。石灰の土。そして――この石灰の土で、いちばん世界が欲しがるものは、何だ。
「源蔵さん」和馬の声が、わずかに震えた。「この石灰質の土。世界で、これと同じ土がいちばん力を発揮するのは――何を育てるとき、ですか」
源蔵はしばらく、和馬を見ていた。それから、その土をぱらりと畝に落とし、ぼそりと言った。
「葡萄(ぶどう)だ」
和馬の心臓が、跳ねた。
「フランスのシャンパーニュ。ブルゴーニュ」源蔵は遠い目をした。「世界でいちばん高いワインを生む土地は、たいてい石灰質だ。お前さんが握った、あの土とおんなじ――石灰の岩盤の土よ。土は薄く痩せて、水もためこまねえ。だから葡萄の根は、生き延びようと、岩の割れ目を縫って、地中深く潜る。苦労した根が、土の滋味を吸い上げて――えも言われぬ味の葡萄を生む。石灰の土は、酒の土なのよ」
石灰の土は、酒の土。和馬の頭の中で、吉野の高野の声が炸裂した。――海の向こうじゃ、ワインだのウイスキーだのは、樽の木で味が決まる。香りのいい木を求めてる連中は、世界にまだいくらでもいる。
樽の木がある。錦川の檜が。杉が。木で、酒の器を作り。そして、葡萄を育てる石灰の土がある。土で、酒の中身を育てる。
木金から、白金へ。そして――その先に、燃えるように赤い金が見えた。紅金(くれないきん)。ワインだ。
「源蔵さん」和馬はその土をぎゅっと握りしめた。「この街は――ワインができる」
源蔵は答えなかった。ただ、長い長い息をひとつ吐いて、空を見上げた。
その目が、店の奥の、煤けた一枚の写真へ、ふと動いた。若い日の源蔵と、その隣に立つ、いかつい顔の老人。先代――二代目だ。この店を継いだ日、先代はこう言ったという。『この土は、いつか、とんでもねえもんを生む。俺には、それが何かまでは、わからなんだ。おめえが、見届けろ』と。
「……三十年、待ったよ」源蔵は、その古い写真を見上げたまま、誰にともなく呟いた。「この石灰の土の、本当の使い道に気づく若いのを、な。……親父にも、見せてやりてえ」
「ひとつ訊いていいですか」和馬は畝の土を見つめたまま言った。「仮に――この街で葡萄ができるとして。それを本気で育てる人間が、いるんですか。山を捨てた、この街に」
源蔵はピンセットを置いた。そして、初めてふっと目元をゆるめた。
「いるさ」
「いる?」
「うちの種を買いにくる、若い連中がいてな」源蔵は店の奥から、古びたノートを引っぱり出した。手書きの客の名が並んでいる。「都会の暮らしに嫌気がさして、この街に移ってきた者。生まれ育って、土に戻ってきた者。――農薬も化学肥料も使わねえ。土の力だけで野菜を育てる。自然栽培、ってやつだ。手間ばっかりで、ちっとも儲からねえ。だが、あいつらは本気だ。この石灰の土に、惚れ込んでる」
「その人たちが――」
「『万能(ばんのう)ファーム』と名乗ってる」源蔵は言った。「十人か二十人の、ちっぽけな輪さ。畑を借りて、朝市(あさいち)を開いて、子どもらに土いじりを教えて。――この街でたったひとつ、下から芽を出してる、本物の芽だ」
和馬の胸が高鳴った。育てる手は、もうある。土に惚れ込んだ、本物の手が。
「なら――」
「なら、簡単だと思うか」源蔵の声が、ふいに苦く沈んだ。「ところがな。あの芽を上からずうっと踏みつけてる足が、あるんだよ」
「足?」
「役所だ。議会だ」源蔵は吐き捨てた。「あいつらが畑を増やそうとすりゃ、『農地の転用は認められん』と撥ねる。市の補助金を申し込みゃ、いつの間にか申請の紙が、どこかへ消えてる。朝市を開く場所も貸さねえ。何をやろうとしても、見えねえ手が伸びてきて――そっと潰す」
「なぜ、です」和馬は、知っていて訊いた。
「金の流れを変えたくねえからよ」源蔵は低く言った。「この街の金はな、ぜんぶひとつのところへ流れるようにできてる。川上(かわかみ)の旦那と、その子分たちのところへな。役所も議会も、その水路を守る堰(せき)よ。下から勝手に芽を出して、別の流れを作られちゃ困るのさ。だから――踏む」
和馬の中で、すべてが繋がった。……これだ。彼がこの街に送り込まれた、本当の理由。眠った金を起こすことでも、葡萄を植えることでも、なかった。その、もっと奥。下から芽を出す本物の芽を、上から踏みつけている、その足を――どかすこと。捕らわれた役所と議会を、市民の手に取り戻すこと。流れを反転(はんてん)させること。
固定種と、F1。その対比がいま、種の話を越えて、この街の政(まつりごと)そのものの姿になった。万能ファームは、固定種だ。下から、自分の力で命を繋ごうとする芽。川上の水路は、F1だ。上が握り、上に依存させ、毎年毎年、同じところへ金を吸い上げる仕組み。
どちらか、なのだ。この街が自分の足で立つか。誰かの水路の下で枯れていくか。
「源蔵さん」和馬は言った。声が、低く据わっていた。「その踏んでる足。――どかせると、思いますか」
源蔵は長いこと、和馬を見ていた。それから、奥のいちばん古い小引き出しを開け、ひとつまみの種を、小さな紙袋に入れて差し出した。
「のらぼう菜の種だ。三代守ってきた、この街の固定種よ」老人の落ち窪んだ目が、和馬を射た。「蒔いてみろ。あの石灰の土に、な。――そして、芽が出たら思い出せ。一粒を土に返せば、万倍になる。山も。種も。街も。それが、この土地の本当の力だ。――その力を踏みつけてる足が、いる、ってこともな」
和馬は、その軽い紙袋を両手で受け取った。不揃いで不格好な、けれど自分で命を繋いでいける種を。
店を出ると、もう日が傾いていた。石灰の坂道を下りていく。手の中の種袋が、かさりと鳴った。
頭上から、声が降ってきた。「いい種を、もらったな」
坂の上の石垣に、毛糸の帽子の爺が腰かけて、こちらを見下ろしていた。いつの間に、いたのか。
「爺さん」和馬は足を止めた。「万能ファームのことも――知ってたんですか」
「知ってるさ」爺は、夕日に目を細めた。「源蔵は種を知ってた。高野は木を。杣田は山を。原沢は眠った金を。――そして、万能ファームの若い連中は、そのぜんぶを土に植えて育てる手を持ってる。欠片はもう、ぜんぶこの街に揃ってるのよ」
「なのに、形にならない」
「上から踏まれてるからな」爺は、夕暮れの坂を見下ろした。「役所と議会が、川上の水路を守ってる。下から出た芽は、ぜんぶ潰される。――お前さんが本当にやらなきゃならねえのは、そこだ。葡萄でも種でも、ねえ。その堰を、市民の手に戻すこと。流れを、ひっくり返すことよ」
和馬は黙って頷いた。爺は、和馬の胸のいちばん深いところを見透かしている。なぜ自分がここへ来たのか。その、本当の理由まで。
「ただ、踏みつけてる足は強(したた)かだぞ」爺は続けた。「正面からぶつかりゃ、潰される。市の補助金は、川上の手綱(たづな)だ。申請しても、握り潰される。――だから、市の外に出るのさ」
「外?」
「国には、こういう田舎が本気で事業を起こすとき、県と国が束になって後ろ盾につく仕掛けが、ある」爺の声が、低くなった。「融資も。税の控除も。畑にする土地の許しもな。市のさじ加減じゃ、ない。市がひとりで握り潰せる金じゃ、なくなる。――川上の堰の外を通る、たったひとつの水路だ」
和馬の息が、止まった。堰を迂回(うかい)する水路。捕らわれた役所の外側を通って、市民の芽に直接、水を引く道が。
「教えてください」和馬は言った。「その水路の、名を」
爺はもう背を向けて、坂を登りはじめていた。その背中が、夕日に長く伸びる。
「自分で調べな」毛糸の帽子が揺れた。「役所の若いのなら、できるだろう。――地域(ちいき)の未来に投資する。そういう名の法律だ」
そう言い残して、影は坂の向こうに消えた。
和馬は、手の中の種袋を見つめた。不揃いな一粒、一粒。それでも土に返せば、万倍になる命。
木金。白金。そして、紅金。黄金の系譜は、もう見えた。育てる手も、揃った。あとは――その芽を踏みつけている足を、どかすだけだ。
座って、池平。たった一駅から始まった旅は、山を越え、土に潜り、そしていま――この街を長年縛ってきた、見えない堰の前に立っていた。
(第7話 了)
音声解説
次話予告――第8話「種を植える金」。下から芽吹いた市民の輪「万能ファーム」。その活動を、川上一派へ金を流すために踏みつぶしてきたのが、ほかならぬ万能市役所と議会だった。「夢は、銭がなけりゃ植えられん」――金庫番ゆきが、紅金の夢に冷徹なキャッシュフローの刃を突きつける。和馬が握る反転の鍵は、市のさじ加減を頭越しに迂回する一本の法律。融資、税控除、農地転用。捕らわれた堰を、市民の手に取り戻す戦いが、いま始まる。
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
ホーム>政党・政治家>野口 和彦 (ノグチ カズヒコ)>小説『スイッチバック』 第7話 伝説のタネ職人