2026/7/6

あの夜、誰もいなかったホームは、朝になると、人で埋まった。
通勤と通学の時間。スーツ、制服、ベビーカー。改札を抜けた人波が、ホームへとなだれ込んでいく。三日前、老人が事切れた引き上げ線の先端は、今は朝日に白く光って、何事もなかったような顔をしていた。
和馬はホームの端に立って、その見慣れた光景を生まれて初めてちゃんと見ていた。
池平方面行きの電車が、いつものように行き止まりへ頭から突っ込み、ガクンと停まる。運転士がのっそりと反対側の運転台へ歩いていく、あの毎朝の儀式。そして、扉が開くと――乗客たちは当たり前のように、空いた座席へ次々と腰を下ろしていった。
始発。万能は、この路線の折り返しの駅だ。ここから乗る人間は、ほとんど全員座れる。
和馬も、その流れに乗って電車に乗り込んだ。やがて発車のベルが鳴り、列車は来たばかりの道を逆向きに走り出す。隣の駅。その次の駅。ホームには、もう長い列ができていた。乗り込んでくる人々は、座れない。吊り革に掴まり、ドアの前に身を寄せ四十分、五十分を、立ったまま都心まで耐えるのだ。
和馬の座る席の、すぐ目の前にもひとり、また立った。革靴のつま先が、小刻みに揺れている。疲れた中年の男だった。
窓の外を、見慣れた景色が流れていく。和馬の頭の中で、あの封筒の一行が、繰り返し、鳴っていた。
――あの線路のおかげで、座って都会へ通える、稀有な始発の街だ。
ずっと、無駄だと思っていた。まっすぐ進めばいいものを、わざわざ街に頭から突っ込んで、向きを変える。非効率の街の癖。素通りしてきたただのレール。
だが。その「非効率」こそが――この街に住む人間に、一日二回、座って都心へ往復できるという、誰も気づいていない特権を配り続けていた。百年、ずっと。
和馬は座席のやわらかさを、手のひらで確かめるように押した。子育て世代がいちばん欲しいもの。それは家の広さでも、家賃の安さですらないのかもしれない。時間だ。立ちっぱなしの一時間と、座って本も読める一時間。その差は一日二時間。一年で五百時間を超える。
気づけば、和馬は立ち上がっていた。
「よかったら、どうぞ」
目の前の中年の男が、きょとんとした。「……いや、私は」
「次で降りるので」和馬は小さく嘘をついて、微笑んだ。
男は戸惑いながら、恐縮して腰を下ろした。「……すみません。助かります」つま先の、小刻みな揺れが、止まった。深い皺の刻まれた顔から、ふっと力が抜ける。たった一つの座席が、この見知らぬ男の朝を、ほんの少しだけ、軽くした。
和馬は吊り革に掴まった。とたんに、揺れが体にじかに響いてくる。踏ん張る足。強張る肩。窓の外の景色は同じなのに、立って眺めると、まるで違う街に思えた。これを、隣町の人間は、毎朝、都心まで四十分。そして、この一席を、万能の人間は、百年、当たり前に配られ続けてきた。当たり前すぎて、その値打ちに、誰も気づかないまま。
あって当たり前のものは、いちど手放してみて初めて、その値打ちがわかる。手のひらに残る、さっきまで座っていた座席のぬくもりが、和馬に、それを教えていた。
都心にこれだけ近く。山と川にこれだけ恵まれ。そのうえ座って通える。万能は――本当なら、子育て世代が奪い合うように住みたがる街の、はずだった。なのに人は出ていく。学校は消えていく。強みを誰も語ってこなかったからだ。あって当たり前の風景は、語られなければ無いのと同じだった。
その日の夜、和馬は駅裏の純喫茶に五人を呼び集めた。
「座って、池平」
和馬が、いちばん奥のテーブルでそう切り出すと、丸木がきょとんとした顔をした。
「なんすか、それ。新しい駅弁?」
「この街のいちばんの強みだよ」和馬は、ナプキンに、路線図を走り書きした。「万能は、折り返しの始発駅だ。ここから乗れば座って都心まで行ける。隣町から乗る連中は、ずっと立ちっぱなしだ。――この差をこの街は、一度も売りにしてこなかった」
しばらく、沈黙があった。最初に口を開いたのは、原沢だった。眼鏡の奥の目がすでに何かを計算していた。
「……数字になるな」彼は、ノートパソコンを開いた。「沿線の地価、通勤時間、子育て世帯の流入流出。座れる始発駅、という条件で改めて引き直したことは、たぶん誰もない。やってみる価値はある。――いや、これはデカいかもしれん」
「あたしは数字より先にピンと来たよ」と、シスコがコーヒーを置いた。「ママ友がよく言うんだ。『東京で働きたいけど、子供を抱えて満員電車は無理』って。みんな、通勤で消耗して、家でイライラして子供に当たる。――もし『座って通える街でゆとりを持って子育て』って言えたら? その一言刺さる家、何百とあるよ」
「響きがいいねえ」ゆきが、長い脚を組み替えた。「『安いから来てください』は、惨めだ。誰も誇りを持てない。でも、『この街には、座って通えるって価値がある』――これは、堂々と高く売れる。物語になる」
テーブルの空気が、少しずつ熱を帯びていく。
まさひろが、腕を組んだまま低く言った。「だが、わからねえな。そんないい話が、なんで百年、放ったらかしだったんだ」
その一言で、熱がすっと引いた。和馬はしばらく、冷めたコーヒーに映る自分を見ていた。
「……たぶん、その逆なんだ」と、和馬は言った。「いい話すぎて誰も、危機感を持たなかった。立地がいい。黙っててもそこそこ人は来る。だから何もしなくても、街は回ってきた。――その『何もしなくていい』が、百年かけて、この街から、考える力を奪ったんだ」
守ることに慣れすぎた。守るための形だけが残り、なぜ守るのかを誰も思い出せなくなった。封筒の言葉が、また、現実の輪郭をなぞった。あの最上階で、グラスに口もつけず座っていた川上という男。前へ進んでいる、と信じて疑わない、あの目。進んでいるのではない。慣性で、転がっているだけなのに。
「だから、目を覚まさせる」和馬は、顔を上げた。「『座って通える街』を、ちゃんと、街の看板に掲げる。出ていく理由じゃなく、帰ってくる理由を、作る。そこから始める」
「いいねえ。乗った」ゆきが、にやりと笑い――それから、すっと真顔に戻した。「で。一つだけ言っておくよ、坊や」
「……なんです」
「看板を掲げて、人を呼んでそれで終わりじゃない。来た家族が、ここで暮らし、稼いで、子を育てられなきゃ、絵に描いた餅だ。座れる電車だけじゃ人は、根を張らない」ゆきの目が、和馬をまっすぐ射た。「住む理由がいる。仕事がいる。――その金と仕事を、誰がどこから生むんだい?」
核心だった。座って通える。それは入り口にすぎない。この街が本当に蘇るには、ここで生きていける確かな糧がいる。山が、農地が――眠っている、この街の、七割五分が。
「……それを、これから探す」和馬は静かに、しかしはっきりと答えた。「眠ってる七割五分を、起こすんだ」
純喫茶の窓の外、線路の向こうで終電がゆっくりとホームへ入り、一度後ろへ下がった。
会計を済ませて店を出ると、街灯の陰に小柄な影が立っていた。毛糸の帽子。腰の曲がった、あの老人――小鹿野爺だった。いつから、そこにいたのか。
「駅の話、しとったろう」爺はにっと笑った。聞いていたらしい。「悪くねえ。だが、坊主。座れる椅子だけじゃ、人は来やしねえよ」
「……わかってます。仕事と、糧がいる」
「ほう」爺は、感心したように眉を上げた。それから、街の北――黒々とそびえる、山の稜線のほうへ、顎をしゃくった。
「山に行きな。木のにおいを嗅いでこい。この街がいちばん最初に金を生んだのは、あの山だ。錦川(にしきがわ)の、材木でな」爺の声が、夜気にすっと沈んでいく。「眠っとるものを起こすにゃ、まず昔どうやって起きてたかを、知るこった」
「……錦川の、材木」
「明日、誰かに会わせてやる」爺はもう背を向けていた。「種をいちばんよく知る男にな」
そう言い残してその背中は、また夜に溶けて消えた。
和馬は、北の山の稜線を見上げた。座って、池平。たった一駅ぶんの座席が、この街の眠った七割五分へ続く、最初の一歩になる。黒い影の向こうで星がいくつか、瞬いている。和馬は、そんな予感を確かに感じていた。
(第4話 了)
音声解説
次話予告――第5話「錦川材サミット」。小鹿野爺が引き合わせたのは、街でいちばん種を知る男。そして和馬は、万能が最初に栄えた理由――山と、材木と、川の記憶へと、分け入っていく。眠れる「木金(もくきん)」を、令和に呼び覚ませ。
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
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