2026/3/11
3.11から15年の日を迎えた。私は福島での追悼式典に参加する。
あの時、私は総理補佐官として官邸の真ん中で震災対応にあたり、7月には閣僚として原発事故対応に携わった。
福島県浜通りを中心に、多くの人々の生活の場を奪った原発事故。その現場に残り、作業を続けた人たちがいた。後にフクシマ50と言われた原発の作業員。放水作業にあたった自衛官、警察官、消防士。彼らがいたから、今の日本がある。
当時の菅総理は政界を引退し、枝野官房長官、海江田経産大臣は議席を失い、寺田補佐官は若くして政界を去った。官邸の中枢にいた多くの政治家が永田町を去る中で、私自身の責任は何か。
震災から15年の節目を迎え、あの事故をどのように後世に語り継ぐべきかを考えずにはいられない。あの時、何があったのかを語り継ぐ責任を感じる一方で、その体験に縛られすぎてはならないという思いもある。
震災を語り継ぐことには、大切さと同時に危うさもある。
戦後、日本は丸腰から再出発し、長く軽武装を貫いてきた。憲法9条には、戦争だけは二度と起こしてはいけないという当時の国民の祈りが込められていた。
しかし80年以上が経ち、世界情勢は一変した。今や東アジアで戦争を起こさないためには、日本自身が強くならなければならない。
私は、その政策転換が遅れた理由の一つは、戦争体験があまりにも強烈だったことにあると思っている。
私自身も戦争を知らない世代だが、戦争を体験した祖父の世代から当時の話を繰り返し聞かされて育った。
一方で、今の若い世代は戦争体験者から直接話を聞く機会がほとんどない。
それは、私が子どもの頃、80年前の日露戦争の体験を聞く機会がほとんどなかったのと同じだ。
歴史の記憶は、必ず世代を越えて薄れていく。
原発事故のあと、日本では脱原発を求める世論が大きく広がった。政府のエネルギー政策も再エネ重視に大きく舵を切った。
しかし15年が経った今、半導体やAIの普及によって電力需要は急増している。さらにイラン戦争によって、エネルギー危機の再来も懸念されている。こうした状況を踏まえれば、国産電源である原子力の活用が必要であることは明らかだと思う。
先日、御厨貴先生が監修した原子力規制委員会のオーラルヒストリーが出版された。
私自身がお願いして火中の栗を拾っていただいた初代委員長の田中俊一氏は「原子力規制を緩めたら、ますます原発は動かなくなる」と語っている。
重い言葉だと思う。独立性と透明性を確保した厳しい安全基準は大前提だ。
原発事故の記憶が鮮明な世代に、原発への強い拒否感を持つ人がいるのは自然なことだ。しかし、そうした感情をそのまま政策判断に結びつけることは、日本の未来を閉ざすことにもつながりかねない。
この春、私の事務所にも大学を出た若者が入所してくる。20代前半の彼らには、幼い時に起こった原発事故の記憶はない。AIが社会に実装される時代に、彼らが豊かに生きていくためには安定したエネルギーが不可欠だ。
エネルギーを制する者が、経済を制する
ここで政策転換に失敗すれば、日本の未来は危うくなる。原発、再エネ、化石+CCUSを含めてエネルギー源をえり好みする余裕はわが国にはないのだ。
私は、原発事故を知らない世代の声に耳を傾けてエネルギー政策を決めていくべきだと思う。原発事故の教訓は極めて重要だ。しかし、その強烈な体験を直接政策に結びつけることには慎重であるべきだ。
残された課題には政治家として正面から向き合っていく。
原発事故によって拡散した放射性物質は、除染作業によって中間貯蔵施設に集められている。浜通りに広がる広大な敷地には、さまざまな利用価値があるはずだ。
浜通りに中間貯蔵施設の建設を福島の皆さんに最初にお願いした政治家は私だ。線量が下がった土壌の再生利用は、官邸など一部にとどまっている。
原発事故処理の最大の難関は、デブリ処理を含む廃炉作業だ。法律上、東電福島第一原発事故の原子力緊急事態宣言はいまも解除されていない。
オフサイトの課題を解決できないようでは、オンサイトの課題で結果を出すことはできない。
復興再生土壌の利用を、いかに全国に広げていくか。私にとって3.11は過去の出来事ではない。「ことを為す」ことこそが政治家の仕事だ。
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