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星野 しょう ブログ

私の皇室についての考え方----万世一系の正統性

2026/7/31

皇統は「男女平等」より優先されるべきか —— アポステリオリな価値観の比較

最近、旧宮家の養子復帰と女性皇族の身分継続を認める法律が成立した。養子本人には皇位継承資格はなく、その男子の子孫が資格を持つという建て付けであり、現在の女性皇族については付則の経過措置として、結婚時に本人の意思で皇籍を離れることができる。一定の前進ではあるが、女系継承の可能性を完全に閉じたわけではない。その結果、「愛子天皇論」をはじめとする女系・女性天皇論が再び浮上している。私はこれを論外だと考える。以下、その理由を整理する。

0. 用語の整理 —— 「男系」と「女系」は何が違うのか

議論に入る前に、ここだけは押さえてほしい。この二つが混同されたまま議論されることが、あまりにも多いからだ。

男系(父系)とは、父親をたどっていくと必ず天皇に行き着く、ということである。父の父の父の……とさかのぼって、最後に神武天皇に到達する。この「父方の線」が一度も切れていない、というのが日本の皇統のルールだ。これを万世一系と呼ぶ。

女系とは、母親を経由して皇統につながる、ということである。たとえば女性皇族が一般男性と結婚し、その子が天皇になった場合、その子の父親は皇族ではない。父方をたどっても天皇には行き着かない。母方をたどって初めてつながる。これが女系だ。

そして、これと似て非なるものが女性天皇である。女性天皇とは、単に「天皇本人が女性である」という話にすぎない。過去にも実例がある。

つまり、 
「女性天皇」=天皇本人の性別の話 
「女系天皇」=血統をどちらの親からたどるかという話 
まったく別の問題である。ここを区別しないまま「昔も女性天皇がいた」と言われても、議論は噛み合わない。

1. 大前提:どちらもアプリオリではない

まず確認しておきたい。 
「男女平等」も、「男系(父系)による皇位継承」も、どちらもアプリオリ(先天的・普遍的)な真理ではない。どちらもアポステリオリ(後天的・経験的)に形成された価値観である。

聞き慣れない言葉なので、先に整理しておく。

アプリオリとは、経験に先立って正しいとされるものだ。たとえば「三角形の内角の和は180度である」は、世界中のどの三角形を実際に測って回らなくても正しい。誰がどの時代に考えても、そうなる。

アポステリオリとは、歴史や経験の積み重ねの中で後から得られたものである。「水は100度で沸騰する」は、実際に測ってみて初めて分かったことだ。人間が経験を通じて確かめ、共有してきた知識である。

価値観についても同じ区別ができる。「最初から誰にとっても正しいと決まっていたもの」なのか、「人間が歴史の中で積み上げて、後から正しいとされるようになったもの」なのか、ということだ。

男女平等は、近代以降に人類が獲得してきた重要な価値観だ。しかしそれは「最初から人間に備わっていた絶対的権利」ではない。歴史の中で、徐々に形成され、拡大してきたものである。

一方、日本の皇統における男系(父系)継承もまた、古事記・日本書紀以来のナラティブとして2600年以上続いてきた、経験的な制度である。

両方とも「絶対的な正しさ」を最初から持っているわけではない。 したがって、「男女平等は絶対正義だから皇統もそれに合わせろ」という議論は、前提がすでに歪んでいる。

2. 人権という概念について —— そして、経験の長さと不可逆性

ここで当然、こういう疑問が出るはずだ。 「男女平等というのは人権の問題ではないのか。人権よりも皇統を優先するというのか」と。

答えは、こうである。

人権もまた、アプリオリな真理ではない。

人権という概念は、人類が最初から持っていたものではない。17世紀から18世紀にかけて、ロックをはじめとする思想家たちが理論を築き、市民革命を経て、少しずつ制度化されてきたものである。世界人権宣言が採択されたのは1948年、まだ80年も経っていない。

これは人権を軽んじる話ではない。人権は、人類が長い試行錯誤の末に手に入れた、極めて価値のある成果である。ただ、それは「天から与えられた絶対の真理」ではなく、歴史の中で獲得されたものだ、という事実を確認しているにすぎない。

そして皇統の男系(父系)継承もまた、歴史の中で維持されてきたものである。

つまり、人権と万世一系は、同じ土俵の上にある。どちらもアポステリオリな価値観であり、どちらか一方が最初から上位にあるわけではない。

では、同じ土俵にある二つのうち、どちらを重く見るのか。

ここで「こちらのほうが尊いから」と言い出せば、それは単なる個人の好みになってしまう。誰も納得させられない。必要なのは、誰が見ても確認できる客観的な物差しである。

私が採る物差しは二つ。

一つは、どれだけ長く実際に続いてきたか。これは数えられる事実であり、主観が入らない。

もう一つは、一度壊したら元に戻せるかどうかである。

この物差しを当てれば、答えははっきりする。

人権という概念が形になってから、数百年。世界人権宣言からは80年足らずである。 皇統の男系継承は、伝統的な皇紀で2600年以上。歴史学的な連続性を厳しく取っても、少なくとも1300年以上は途切れていない。

桁が違うのである。

繰り返すが、これは人権を否定するものではない。人権を守ることと、皇統を守ることは、そもそも両立する。前者は国民一人ひとりの生活に関わり、後者は国民の権利を奪わない。ぶつかっていないのだ。

にもかかわらず、「男女平等という新しい価値観を、2600年続いた制度にまで適用せよ」と言われたとき、私はその優先順位を採らない。より長く続き、かつ失えば二度と戻らないもののほうを守る。それだけのことである。

さらに重要なのは不可逆性だ。難しい言葉に聞こえるが、要するに「一度やめてしまったら、二度と元には戻せない」ということである。

万世一系は、まさにそれにあたる。一度途切れさせたら、二度と復元できない。血統の定義そのものが変わってしまうからだ。父方の線が切れた瞬間に、「父方をたどれば天皇に行き着く」という条件を満たす人間は、この世からいなくなる。あとから「やっぱり戻そう」と言っても、戻す先がもう存在しないのである。

制度の中には、やってみて失敗したら元に戻せるものがある。税率も、補助金も、条例も、そうだ。しかし皇統は、実験的に「ちょっと変えてみて、ダメだったら戻す」ということができない。やり直しのきかない一発勝負である。

長く続き、かつ一度壊したら終わりのものに対して、ごく最近の価値観で手を加えるのは、極めて慎重でなければならない。

3. 「長く続いたもの=正しい」への反論について

「長く続いてきたから正しいというなら、奴隷制や絶対王政も続けるべきだったのか」という反論がよく出る。これはもっともな疑問だ。私も、長く続いたものは何でも守れとは考えていない。

では、何を基準に分けるのか。私の基準はこうである。

その制度が、国民一人ひとりの権利を実際に奪っているかどうか。

この基準で見てみよう。

奴隷制は、人間そのものを他人の所有物として扱う制度である。奴隷にされた人には、自由もなければ財産もない。権利が丸ごと消える。これは実害そのものだ。

絶対王政も同じである。王の一存で財産を取り上げられ、投獄される。今日持っていた土地が明日には自分のものでなくなるかもしれない。誰も安心して働けないし、蓄えることもできない。

近代国家というものは、こうした状態を終わらせるために生まれた。一人ひとりの生命と自由と財産を守る。それが国家の存在理由である。だから、その土台そのものを壊す制度は、どれだけ長く続いていようとやめなければならなかった。

では、皇位継承はどうか。

誰が天皇になるかによって、国民の権利が奪われることはない。

皇位継承のルールが男系であることによって、あなたの財産が取り上げられることはない。仕事を選ぶ自由が狭められることもない。選挙に行けなくなることもない。裁判を受ける権利も、言論の自由も、何一つ変わらない。

一般の国民にとって、皇位継承のルールがどうであれ、日々の生活に実害は生じないのである。ここが奴隷制や絶対王政との決定的な違いだ。

反対論者は「皇位継承は憲法第2条に定められた国家制度なのだから、憲法第14条の平等原則が及ぶはずだ」と言う。しかし、皇室はもともと憲法上、一般国民とは異なる扱いを受ける存在である。皇族には選挙権も被選挙権もなく、職業選択の自由も、居住移転の自由も、婚姻の自由も、一般国民と同じようには保障されていない。憲法自身が、皇室を別建ての制度として設計しているのだ。

そこだけ「平等原則を適用せよ」と言うのは、都合のよい切り取りである。

つまり、 「国民の権利を実際に奪うもの」と「国民の権利を何も奪わないが、長い歴史的アイデンティティであるもの」は、切り分けて考えるべきなのである。

前者は、どれだけ長く続いていようとやめるべきだ。後者は、最近の価値観を理由に軽々しく手を付けるべきではない。同じ「伝統」でも、扱いはまったく違う。

では、天皇・皇族ご自身の権利はどうなのか

ここで、鋭い方はこう指摘するはずだ。 「国民の権利は奪われないと言うが、天皇陛下や皇族の方々ご自身の権利は制限されているではないか。それは人権侵害ではないのか」と。

これは正当な指摘である。逃げずに答えたい。

まず、事実としてその通りである。皇族には選挙権も被選挙権もない。職業を自由に選べない。住む場所も自由には決められない。結婚にも制約がある。表現の自由も、実質的に大きく制限されている。一般国民が当然に持っている自由の多くを、皇族は持っていない。

私はこれを「制限は存在しない」と言い繕うつもりはない。存在する。

そのうえで、二つのことを申し上げたい。

第一に、この制限は男系か女系かとは、まったく関係がない。

仮に女系継承を認めたとして、皇族の権利制限が解消されるだろうか。しない。天皇が男系だろうと女系だろうと、皇室という制度がある限り、皇族の自由は制限され続ける。

それどころか、増える可能性すらある。女系を認め、女性皇族が結婚後も皇室に残り、その配偶者や子も皇族となれば、制限を受ける人の数はいまより増える。人権を理由に女系を推す議論は、人権制限の解消どころか、拡大につながりかねないのである。

つまりこの論点は、男系と女系のどちらを選ぶかという問いに対して、何の答えも与えない。人権を理由に女系を主張することは、論理としてつながっていないのだ。

この論点を本気で徹底するなら、行き着く先は「皇室制度そのものをやめるべきだ」という主張になる。それは一つの立場としてあり得るし、そう主張する人は実際にいる。しかしそれは女系論とは別の議論である。女系論者が人権を持ち出すのであれば、まずどちらの立場なのかをはっきりさせるべきだろう。

第二に、この制限は、奴隷制や絶対王政における権利剥奪とは性質が異なる。

奴隷制において、奴隷にされた人は、そもそも権利の主体として扱われていない。人間ではなく物として扱われる。絶対王政において、臣民は王の恣意に晒される。今日安全でも明日は分からない。共通しているのは、その人が誰であろうと、意思がどうであろうと関係なく、力によって一方的に奪われるという点である。

皇族の場合は違う。制限は、皇族という地位に伴って生じるものである。憲法と皇室典範という公開されたルールによって定まっており、恣意的に変えられるものではない。そして重要なことに、皇族には皇籍を離れる道が制度として用意されている。実際に、結婚によって皇室を離れ、一般国民として生活しておられる方々がいる。

一方通行ではないのだ。ここが決定的に違う。

とはいえ、私はこれで問題が全部片付くとは思っていない。天皇陛下ご自身に離脱の道がないことは事実であり、皇族の方々が背負っておられるものの重さは、想像を絶する。そのことへの敬意と感謝を欠いたまま、制度論だけを語るべきではないと考えている。

だからこそ言いたい。皇族の負担を本当に問題だと思うなら、まず考えるべきは公務のあり方や支援体制であって、継承の血統をいじることではない。血統を変えても、負担は一ミリも軽くならないのだから。

4. 歴史上の女性天皇について

「昔も女性天皇がいたじゃないか」という指摘もある。 確かに推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)・明正・後桜町と、歴代8人10代の女性天皇が存在する。

しかし重要なのは、彼女たちもすべて男系(父系)の皇族から出ているという事実だ。つまり、全員が「父親をたどれば天皇に行き着く」人物である。

そして次代は必ず男系に戻している。母方の血筋だけで皇統を継ぐ「女系継承」は、2600年以上のあいだ、ただの一度も行われていない。

冒頭で整理した通り、「女性天皇」と「女系天皇」はまったく別の話である。過去に前例があるのは前者だけであって、後者には前例が一つもない。「昔も女性天皇がいた」という指摘は、女系継承を認める根拠にはならない。

守るべきは「男性しか天皇になれない」ことではなく、「男系(父系)の連続性」である。ここを混同してはならない。

5. 「旧宮家の復帰など非現実的だ」という批判について

今、女系論が一定の支持を集めている最大の理由は、実は「男女平等だから」ではない。「そもそも男系を維持できるのか」という不安である。

具体的には、こう言われる。「旧宮家の男系男子は戦後80年間ずっと民間人として暮らしてきた。今さら皇族になれるのか。国民が受け入れるのか」と。

しかし、この批判は前提を取り違えている。

そもそも宮家というものは、まさにそのために存在する制度だからである。

伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮といった世襲親王家は、天皇の直系に男子が生まれなかったときに皇統をつなぐための備えとして設けられた。何百年も、その役割のために維持されてきた家である。皇統が細くなったときに出番が来る。それが宮家の存在理由なのだ。

そして、これは机上の話ではない。実際に機能してきた。

江戸時代後期、後桃園天皇に男子が生まれないまま崩御した。このとき皇統をつないだのが、閑院宮家から迎えられた光格天皇である。そして現在の皇室は、この光格天皇の子孫にあたる。つまり今上陛下ご自身が、宮家から皇統をつないだ系統なのである。

宮家から皇統をつなぐことは、日本の歴史における例外ではない。想定された正規の手続きである。

さらに言えば、旧11宮家はすべて伏見宮の系統である。600年近くにわたって、皇統の予備として血統を保ってきた家々だ。

そして最も重要な点がある。彼らが民間人になった理由である。

1947年、GHQの占領下で、11宮家51人が一斉に皇籍を離脱させられた。本人たちが望んで出て行ったわけではない。占領政策の一環として、外部から制度が切られただけである。

制度が切られたから民間人になった。その人たちに向かって「民間人だから無理だ」と言うのは、順番が逆である。原因と結果をひっくり返した議論にすぎない。

なお、今回の法律は本人の意思にもとづく養子縁組という形をとっており、誰かに強制されるものではない。「嫌がる人を無理やり皇族にする」という批判も、制度の実態と合っていない。

「では実際に何人いるのか」という問いについて

ここまで書くと、必ずこう返される。「制度の話は分かった。しかし今この瞬間、実際に何人の男系男子がいて、そのうち何人に養子となる意思があるのか」と。

正直に言えば、私はその数を知らない。旧宮家の方々の個人情報は公表されておらず、私的な立場を尊重すれば、公表されるべきでもない。だから誰も断言できないし、断言している人がいるとすれば、それは推測である。

しかし、だから男系維持は無理だ、という結論にはならない。

制度を守るためには、やれることを全てやるのが先決である。

養子縁組の道を開く。皇族としての活動を支える体制を整える。国民の理解を積み上げていく。打てる手は残っている。それを全部試したうえで、それでも駄目だったという段階に至って初めて、次の議論が出てくるはずだ。

やれることをやらないまま「どうせ無理だ」と言って、二度と元に戻せない選択に踏み切る。これは順序が完全に逆である。

しかも、制度を用意しておくこと自体には何の害もない。誰の権利も奪わず、誰にも損害を与えない。用意しておいて使われなければ、それまでの話である。しかし用意しなければ、その選択肢は永久に失われる。

失うものが何もない側の手を先に打たずに、失えば二度と戻らない側の手を先に打つ理由が、私には分からない。

6. 結論 —— 積み上げてきたものへの向き合い方

ここまでの整理をまとめる。

人権も万世一系も、どちらもアプリオリな絶対真理ではなく、アポステリオリな価値観である。 両方が同じ土俵にある以上、優先順位は主観ではなく、客観的に確認できる物差しで決めるべきだ。 その物差しは、経験の長さと不可逆性である。 万世一系は2600年以上続き、一度途切れたら復元不可能である。 皇位継承にまで男女同権を適用しようとする議論は、ごく最近のものである。 奴隷制や絶対王政と違い、皇統は一般国民の権利を何一つ奪っていない。 皇族ご自身の権利制限は現に存在するが、それは男系か女系かとは無関係であり、女系にしても解消されない。 皇統が細くなったときに備える制度として、宮家はもともと存在している。 そして、その制度を活かすためにやれることは、まだ全て試されていない。 したがって、最近の価値観を理由にこの制度に手を付けることは、認めるべきではない。

ここから先は、あくまで補助的な視点である。論証ではなく、姿勢の話として読んでいただきたい。

一つは、文化的な価値についてである。

日本の皇室は、現存する世界最古の王朝である。二番目に古いとされるデンマーク王室でも、その始まりは10世紀。日本はどの数え方を採っても、そこから大きく引き離している。

これは、日本人が自分たちを褒めるために言っている話ではない。世界のどこを探しても、他に同じものが存在しないという、単純な事実である。

各国の王室や王朝は、革命や征服や断絶によって、その多くが姿を消してきた。残ったものも、途中で家系が入れ替わっている場合が少なくない。そうした中で、日本の皇室だけが、途切れずに今日まで続いている。

法隆寺や正倉院が世界の宝として扱われるのは、それが古く、しかも他に代わりがないからだ。皇室もまた、同じ意味において、日本が世界に対して持っている、他にない資産である。

そして建物と違うのは、皇室が今も生きて機能している、ということだ。修復して保存する対象ではなく、現に続いている営みである。だからこそ、一度手を離せば、それで終わってしまう。

もう一つは、時間との向き合い方についてである。

イギリスの作家G.K.チェスタトンは、著書『正統とは何か』の中で「死者の民主主義」という言葉を使った。伝統とは、すでに亡くなった祖先たちにも投票権を与えることだ、という趣旨である。

今、日本に生きている人間は約1億2000万人である。しかし、この国をつくり、支え、次の世代に手渡してきた人間は、その何十倍もいる。彼らはもう投票できない。しかし彼らが積み上げてきたものを、今この瞬間にたまたま生きているというだけの理由で、多数決で壊してよいのか。チェスタトンは、それは傲慢ではないかと問うた。

もちろん、この考え方だけで何もかもが決まるわけではない。前に述べた通り、国民の権利を奪う制度は、どれだけ長く続いていようとやめるべきである。だからこれは、判断の基準そのものではない。

ただ、2600年以上続き、しかも一度失えば二度と戻らないものを前にしたとき、「今の私たちが好きに変えていい」とは言えないのではないか。そういう構えがあってよいと思う。

最近の法律は、旧宮家の復帰という形で男系維持の可能性を残した点で評価できるが、女系議論の火種を完全に消したわけではない。 愛子天皇論をはじめとする女系論は、以上の理由から論外である。

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著者

星野 しょう

星野 しょう

選挙 大和市議会議員選挙 (2023/04/23) [当選] 1,265 票
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肩書 大和市議会議員(即応予備自衛官)
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